コンピューティング今昔

娘とIchigoJam を組立て、BASIC事始めしてます。

IchigoJamは、画面はビデオ端子を使います。キーボードはUSB端子がついているのですが、これはPS/2キーボード対応しているUSBキーボードをつけるための端子のようで、愛用のthinkpad キーボードはつながりませんでしたので、amazonでこれを購入し、プログラムを楽しめるようになりました。最初は、こんな単純なのつまんない、って言うかななんて思っていましたが、結構楽しんでます。

単純にBEEPコマンドを打って音を出すだけでも、盛り上がっています。素直な娘だ。。。まあ、BEEPコマンドも、音程を変えられるような仕組みになっていて工夫されているとは思いますが。

娘と一緒にBASICで遊んでいると、例によって自分の昔を思い出しちゃいました。

私とパソコンとの最初の出会いは、友達のうちにあった、MZ2000
でした。今調べると、結構高い機械だな、友達のお父さんお金持ち!と思う。毎日のように友達の家にお邪魔して、プログラム打ち込んで遊んでました。カセットテープからシステムプログラムを読み込んで立ち上がるという、今思うとかなりチャレンジングな機構を採用していましたね。いろいろなシステムが走らせられるのはいいような、カセットなので、10分程度待たないと立ち上がらなかったような、そんな記憶が。

当時、秋葉原ではMSXが出始めたタイミングだったと思います。当時の私の愛読雑誌の初歩のラジオなどでも特集が組まれていましたが、MSXは画面がMZ2000と比べたら綺麗ではなかったので、あまり興味はありませんでしたね。

次に、触れ合ったパソコンは、JR200でした。これも自分のではなくて、友達の家で、やっぱりプログラム打ち込みとかして遊んでいたと思います。この友達はファミコンも持っていたのでゼビウスとかして毎日遊んでいました。

自分はと言えば、我が家は、父が(娘の祖父)めったに子どもにモノを買い与えない人だったので、パソコンはおねだりもしなかったと思いますが、買ってもらえませんでしたね(その反動が今に出ている気もします。。。)

ようやく中学2年の時にFM77AVを買ってもらったのが自分の最初のパソコンでした。やっぱり、BASICのプログラムを打ち込んだりして遊ぶのが多かったと思いますが、XANADU、とかゲームソフトも買ってもらって、いやほど遊んでいたと思います。当時は、パソコンもいろいろいじくる余地があったので、パソコンでゲームするのが多かったとは思うんですが、何割かは、当時ソフトバンクが出していた、Oh!FM という雑誌の記事を参考に、拡張メモリボードを作成したり、AD変換器をつけてデータをとったり、Cでプログラミング(DRACO Cというちょっと風変わりな処理系を使っていた)を始めたりと、今につながることを始めたのもちょうどこのころと思います。

(当時、ソフトバンクの出版者の孫正義、という名前を見て、変な名前、って思っていた。。。)

で、高校の時は、高2あたりから大学の受験を考え始めて、あまりパソコンで遊んだ記憶がありませんが、大学に入って、教養で、プログラムの時間がありましたが、学校で使っていたのが、FM16βだったと思います(と書いて調べてみたら、時期があいませんね。FM-Rだったかも。)学校に営業しまくりの富士通ですね。授業の時間、課題に飽きてPascal でワイアーライン3Dグラフィックスを書いて遊んだり、当時はまだWebのない時代でしたが、大阪大学に進んだ高校の同級生とtalk でキーボードチャットをしたりしていたような気がします。

そして、3年生で専門に上がって、出会ったのが、学科の計算機室にあったSunMicrosystems のSPARCstation2。共用の計算機室のSun3と比べたら圧倒的に速かった(今思うと、めちゃ遅いですが)。それに、SPARCstationのピザボックスのような形状がめっちゃカッコよかった!

当時、Webの始まりで、MOSAICで見られるホームページをつくったり、emacs, gccなどのgnuの環境をコンパイルして整備したり、朝から晩までかなり時間を無駄に浪費していました。おかげで単位が足りず卒業がやばかった。。。のも今ではいい思い出(?)です。学部3年生の時には、家ではEPSONのPC386Pっていう、遅めの98互換機(貧乏学生だったので)で、MSDOS上でLaTeXやグラフ描画ソフトのNgraphを使ってレポートを仕上げていましたが、やっぱり学科の計算機室に入り浸って、unix で遊んでいる方が多かったですね。

その後、修士時代にlinuxと出会い・・・と続いていきますが、今思うと、激動の時代だったなと思います。

娘はこれからどのような計算機との触れ合いをしていくのだろう?と楽しみです。私も、昔を振り返るのはこれくらいにして、もう少し最新のコンピューティングに触れ合うようにしよう、と思いました。

 

受験後・・・

2年ほど、ほとんど遊びにも行けず塾と家で勉強をしていた娘・・・

受験が終わって我が世の春を謳歌しております。

祖父・祖母に報告のため、関西の実家に1泊で帰省。

滑りまくり。

やや、遅れ気味な気がしますが。。

昼は、遊具公園へ行き、4歳ぐらいから11歳ぐらいの子たちと一緒に遊びまくりご満悦。受験勉強で体がちょっと鈍っている様子です(父も)。

夜は、カニを食べまくり、ご満悦。

行き帰りの新幹線の中では、好きな本を読みまくり。

父は、過干渉(?)で、入学後、数学に躓かないでほしいとの願いのもと、少し代数を勉強するようにテコ入れ、していますが、まあ、1日10分ぐらいです。

祖父は祖父で、空気を読まず、娘に今年の灘中の問題を解いてみろと差し出してました。娘、解けず・・・。「もう無理」とのことですが、受験時期でも無理、の間違いだと思います。日に日に毎日受験した日々が遠い日のことになりつつありますが、それでいいのだ。

今日は、親子で、IchigoJamのキットを組み立てをしつつ、正しいはんだ付けの仕方を娘に指導しました。本当は1年ほど前にしておきたかったが、受験があったので遅くなりました。賢い子の家庭なら受験勉強と並行してこういうのをやれたと思いますが、我が家はそこまでの余裕はありませんでした。

このキットは、Webに丁寧な作り方のドキュメントもあり、優れていると思います。電子工作・マイコン入門として、Arduino やラズパイも考えたが、やはりはんだ付けをする要素があった方が良いし、インタープリターでプログラミングは始めた方が良いと思うので、IchigoJamを2個買ってはんだ付けの教材兼プログラミングの教材にすることにした次第。娘の教育に飽きたら(or 娘が父の付き合いに飽きたら)、父の遊び道具として、mbed 入れて遊ぶ予定。

そんな感じで、毎日が楽しく過ぎていきます。受験終わってバンザイ!

中学受験 拾遺(3)

学習

学習に関しては、気持ちはともかく、実際には我が家は十分サポートできていなかったので、もう少し何とか出来たらよかったかも、と感じています。新5年生の時に入塾して、その夏ぐらいまではほとんど放置していましたが、5年の夏期講習時にこれではあまりよろしくないと思って、家庭で学習計画管理も少しするようにしました。このあたりのことは、中学受験についてこのブログで書き始めたときに書いた通りです。

日能研の公開模試偏差値は、5年の平均がだいたい55ぐらい。6年の平均がその+9程度でした。と考えると、よく6年の年間偏差値を「持ち偏差値」と言ったり、6年の模試の最高、最低の範囲で志望校をまとめましょうというアドバイスがありますが、我が家の受験結果から考えてもそれは妥当だと思います。

過去問について

我が家は、始めるのが遅くて、10月ぐらいに最初の過去問をやりましたが、ぼろくそで、第一志望校の過去問で受験者平均点を超える点が出始めたのが1月になってからでした。その後も、受験者平均を割る点しか取れない年も多く、最後まで不安でした。豊島は、1回の合格最低点は過去問で取れるようになっていましたが、2回、3回は、ぎりぎり合格程度だったので、1回の不合格を見たときには親としては、「ああ、残念だ。。。」と正直思いました。これらの学校の過去問は、最終的には10回分程度をやりました。

1月の淑徳与野、明の星、渋谷幕張については、それぞれ3回分程度をやって本番に臨みましたが、どの学校についても合格点には毎回達していました。特に、渋谷幕張は、R4偏差値からするとチャレンジなのですが、過去問からすると毎回余裕がありました。これは、社会理科の重みが他の学校と比べると重めで算数の弱い娘の弱点をカバーしてくれていたのかも、で、本番入試でもそれぞれ合格をもらえました。

併願校の組み立てについて

塾のアドバイス通り、娘の模試偏差値の範囲から受験校を選定しました。1月については、2月受験校が女子校が多いと考えられたので、女子校連戦ができる淑徳与野・明の星と、娘がなぜか受けたさそうにしていた渋幕を選択しました。2月校は、豊島はチャレンジなので、全落ちに備えて1日午後と2日午後に受験校を設定しましたが、体力・精神力的に、2月受験は非常に大変で、1日の午後受験はもっと楽に移動できるところを選んだ方が2日の受験に良かったのかもしれませんが、受験校は行ってみたい学校でないといけないので、現実には他の組み方は難しかったと思います。2日午後は出願はしていましたが、2日の豊島であまりに疲れた感じだったことと、1日のフェリスが合格していましたので、受験をあきらめました。

受験が終わって

子どもはさっさと、学校に戻っていきました。切り替えが早い!親は、なんだか急に終わっちゃった感じで、心にぽっかり穴が開いたままです。仕事もずいぶん休ませていただいて、滞っているのですが、仕事に気持ちがまだ戻ってきていません。明日から大丈夫かな。。。

 

中学受験 拾遺 (2)

今年は、インフルエンザが流行りまくりましたね。

我が家も例外ではなく、昨年10月末に家族全員インフルエンザの予防接種をしていたのにも関わらず、正月明けに妻を発信源として、インフルエンザが家族に蔓延しそうになりました。。。娘も、1月の埼玉受験前の微妙なタイミングに妻から(たぶん)インフルエンザをもらい、学校は行けないし、塾は行けないしでやばー、って感じでした。淑徳与野を受験したときには、熱が下がり、2日以上経過していましたが、明の星と淑徳与野の過去問演習は、淑徳与野に行く前日に慌ててやるという体たらくでした。。。

これ以降、我が家では、羹に懲りてなますを吹く、インフル防止対応をしていました。

やったこと。

・手洗いうがいの励行、マスク着用の徹底(当たり前のこと)マスク箱買い。

・家の空気清浄機・加湿器の増備(Amazon最高!)+積極的な(=24時間体制)使用 リビングは2台、他は各室1台体制。加湿器のタンク給水が朝夕就寝前の日課でした。

・各人離れてそれぞれ別室に就寝。父は1カ月間リビングに布団を敷いて寝起きしてました。。。

・人混みを避ける。可能な限り電車に乗らない。私も妻も、車通勤なので、やりやすいのですが、出張なども飛行機・新幹線などには乗らないようにしました。塾の送り迎えも極力車で往復。日特などは塾の送り迎えで1日2往復片道50km=200kmを走ったかも。やりすぎかもしれませんが、例年横浜駅の地下を通った後インフルエンザに罹るーー>家族に蔓延を繰り返していたので、今年これを父発信地になったらアウトだと思って。。。また、仕事でも、なるべく人と合う用事を1月に設定しないようにしました。

・栄養をつける(?)

お蜜柑とか、リポDとか、ヤクルト(我が家は宗教上の理由で、R-1じゃなくてヤクルトなんです)とか、適量+αを摂取。乳酸菌がいいのでは感(?)に毒されていて、乳酸菌キムチとか食べててまあ気のせい?それから、肉も気軽に食べるようにしていました。意味があったのかはわかりませんが、例年父は貧弱でインフルエンザに罹っていましたが、今年かかることは防止できました!

1月に学校を休むのか?問題について。

我が家は当初は、1/31にお休みを頂くほかは、試験の日以外は登校するつもりでいましたが、上述の通り、1月いきなりインフルに罹患して休み、明の星受験した後も体力が回復せず休み、学校に復帰したと思ったら、明らかにインフルに罹っているのに学校に来ている子がいることがわかり、恐ろしくなって、学校を休ませてしまいました。試験の前の週には、実際に小学校のかなり多くのクラスが学級閉鎖となり、図らずも、1月のかなりの割合、2月入試まで学校を休む結果となってしまいました。

娘が学校を休んでいても、親は仕事があるので、めちゃくちゃ家族のオペレーションが困難だし、娘も家と塾の往復ばかりで、かなり気が滅入るところがあったようです。たまに夜のお散歩に妻が連れ出してくれたりしたので、これはよかったのですが、まあ、個人的意見としては、学校を受験勉強のために休むのはリスクも大きいかなと思いました。過去問の進みが年内はかなりスローペースだったので、1月に家で長めの時間が取れたのはよかったのかもしれませんが。

 

 

中学受験 拾遺 (1)

昨日夜、我が家の中学受験は最後の豊島岡受験が繰り上げ合格候補で終わりました。

試験は終わったのですが、中学受験が何のためにあるかというと、進学する中学を決定するためにあるわけで、当然進学先1つを決定して、その手続きをしなければ終わりません。

2日の昼には、フェリスの発表があり、合格を頂いていて、フェリスの第一次手続きが、3日にあり、入学金を支払っています。娘の熱望校はフェリスで、それは前々から確認していたのですが、豊島岡も同じくらい行きたい中学ということで、2/3, 2/4と苦しい中、受け続けることができたのは、娘の強い意志があったからだと思います。さて、最終的に、豊島は繰り上げ候補で終わったわけですが、3回とも受験をしていたので、第一志望の旨を豊島岡に申告すれば繰り上げ合格する可能性が高まることは、豊島岡の入試説明会でも説明があった通りです。さて、そのような条件で、大事なのは、娘の考えということで、昨日発表があった後、娘にどちらに行きたいのかと再確認をしました。親としては、これだけ大変な思いをしてここまで来たのだから、豊島に行きたいと言う可能性もあるのかなという考えからの再確認…娘の答えは、「フェリス」でした。

ということで、私は、今朝、再び豊島岡を訪問、繰り上げ候補の通知を受け取る際に、豊島岡の教務の先生にその旨をお伝えし、辞退となりました。教務の先生は、昨年の春に、学校見学に1人でお邪魔させていただいたときに、丁寧にご案内していただいた先生だったので、お伝えするのが辛かった。

娘に黙って、「第一志望です」、って言って、繰り上げ連絡が来たら手続きしちゃおうかとふと思ったのは内緒です。ってそれじゃダメでしょ。。。娘にとっては志望順位は明確だったのだと思うのですが、親はブレブレでした。

中学受験は、併願校をいくつも設定しますので、当然辞退する学校もたくさん出ます。私は、つらかった。明の星などに辞退届のFAXを送るのが。そして、1校に進学先を決めるのが。どの学校も素晴らしいし、娘が一生懸命取り組んだ結果いただいた合格だから。我が家は、娘の意思が非常に明確だったし、幸いにも熱望校から合格を頂けたから、楽だったのかもしれないけど、このあたり悩まれる方々も多いのではないでしょうか?