私の小6夏休み

blog で自分語りすると、たいていあまり読んでいただけないのですが、娘の受験勉強の毎日を見ると、自分の昔を思い出さずにはいられません。

私の小6、夏休み、に限らないかもしれませんが・・・当時、ラジオ大好き少年だった私は、夏休みもラジオの工作とかして遊んでました。愛読書は、「初歩のラジオ」で、当時神戸に住んでいたのですが、大倉山の市立中央図書館まで自転車で走って、いろいろな電子工作の本を借りてきては読んだり、三宮の「星電社」で部品を買ったりして、ちょっとしたラジオの工作をしたりしていました。

当時、ミニFMという、近距離しか届かない放送局を開くのが流行って?いて、友達と番組をつくって放送したりして遊んでいましたが、工作の好きな私は、送信機をつくってテープレコーダーから接続できるようにしたり、技術担当が主でした。放送のテイストは、基本、局メンバーのよく聞いている番組のパクリで、友達が担当した番組は、AMの深夜放送の「ヤングタウン」のパクリ、でお笑い系中心、私の担当していたのは、音楽中心で、キョンキョンとかチェッカーズを流していたような。。。記憶では、短波で聞いていたグアムのKYOIという放送局でよく流れていたStievie Wonder のPart Time Lover とかMichael Jackson のBeat it とかも流したような気がしていたんですが、これは1年後のナンバーなので、どうも記憶がごっちゃになっているみたい。6年生の夏に短波を聞けるラジオを自分で作って、海外の放送局を結構聞いていた覚えがあるのだけど、それは中一の時なのかも。

あと、当時、パソコン、というかマイコンが小学生の間でも流行り?だしたタイミングで、私は買ってもらえませんでしたが、友達のところに行ってJR-200(National)で、BASICのプログラムを打ち込んで遊んだりしていました。ファミコンも、我が家にはなかったので、同じ友達のところに行ってゼビウスとかで遊んでいた気がします。

そんな感じで、昔からそうですが、好きなことを先に、そればっかりやる性格だったので、夏休みの最後数日は悲惨(=宿題ノルマ)でした。

特に、漢字の100字練習帳ってのがあったと思いますが、これが量的に結構あったように思います。毎日1ページぐらいの量だったと思いますが、最後の2~3日でまとめて40日間分をやるので、指が赤黒くなりながら、泣きながらやっていた気がします。それから、計算ドリルに至っては、9月1日時点でほとんどできておらず、9月1日が憂鬱な小6男子でした(台風で休校になったらいいのにとかそういう感じ)。確か提出の時に列を作って先生に提出するのですが、できていないと確か「ゲンコツ」を貰った気が(今じゃありえない)。計算ドリルはゲンコツを貰って済まそう!(good idea!)と思っていたんですが、そうはいかず、放課後居残りで宿題を「終わるまで」やらなければいけなかった。最初は放課後居残り組は結構いたんですが、だんだんと減っていき、とうとう私ともう一人だけになってしまいました。私は結構成績の良い方だった(のかな?)のですが、「努力」することがとても嫌いで、居残りの計算ドリルも少しやったらめんどくさくなって、でも最後までの量を考えたら憂鬱になるというそんな子で、居残りしながら、「答えを写して」いた記憶があります。全部正解だと怪しまれるかなとか思って、10%ぐらい間違えた答えにするとか、悪知恵も働かせたりして。。。今思うと先生には全部ばれていたと思いますが・・・結局居残りで秋風の吹く10月過ぎ?まで居残っていたような。

なので、親が設定した宿題をなんやかんや言いながらきちっとコンプリートしている娘には本当に驚かせられます。明らかに、自分のDNAは入ってませんね。妻は中学受験経験組(都心の女子校)なのですが、勉強はいやいややっていたっぽいので、いつ両親のDNAが発現するのか、心配です。

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