sbc6809を作る

有隣堂にモトローラ6800伝説があったので、思わず衝動買い。(ついでにインテル8080伝説の方も・・・)こういうの私的にはぐいぐい来ます。

私は、先に書いたように、Z80と6809が載っているパソコンをいじくったことはあるのですが、アセンブラは6809しか経験がないです。今回、FMのメモリ拡張ボードなどを作ったりしてハードウェアは一番なじみのある、6809のsingle board computer を作りたくなりました。

まず、スイッチサイエンスでPCBを販売していたので、購入。

ボードを購入して、退路を断った後、部品を集めようと思いましたが、その前に、自分のジャンクボックスにEPROMやら、74LS00やら74LS138ならきっとあるはずと思って、探してみたら、今の家に引っ越した後に部品の整理ということで、古い部品をかなり捨てていたことが発覚。どれも手持ちがありませんでした。手持ちの7400などは全部HCだった。使えない!

EPROMライタも昔作った覚えがあるのですが、見つけられない。EPROMの消去は、サンハヤトの感光基板作成用の紫外線ライトがあるはずだからそれでやればいいはず。

頒布されている技術情報のpdfを見ると、非常に丁寧に部品の購入先やら型番まで表に書かれていたので、それを見ながら、全部通販でポチポチ購入。

6809は、若松通商になかったので、ebay で怪しい中国の業者に、Hitachi HD63C09や、Motorola MC68B09P の発注をした後に、オレンジピコでMC68B09Pが扱われていることに気が付き、そちらで68B09Pと、あとで楽することを考えて、EEPROMを購入。若松からは、HD63A50P, HM6264ALSP-12, Intel D27256, 74LS00, 74LS138を購入。その他必要な部品(シリアル-TTL 5V変換ケーブル、ACアダプター、ICソケット、スイッチ、抵抗、コンデンサ、水晶)は、秋月から購入。

EPROMの書き込みにライタが必要なので、amazonでTL866CSを購入。

それから、ボーレートクロックジェネレータとして使われているPIC12F1822も書き込みツールを持っていないので、オレンジピコからpickit3互換品を購入。

ポチポチしまくって数日内に全部の部品がそろいました。通販バンザイ。

オレンジピコのMC68B09PはSTmicroでした。なんか残念。やっぱり日立かモトローラでしょ!

オリンピックの女子パシュート決勝を見ながら、はんだ付け大会。部品のGNDピンのサーマル処理がちゃんとされているので、かなりはんだ付けが楽でした。素晴らしい。

pickit3を使ったpic12f1822の書き込みは、ブレッドボードを使って行いました。

EPROMは動作確認用のエコーバックプログラムのHEXファイルを書き込み。

PCにつないで、5VのACアダプターを繋ぎ電源投入すると、あっさり動きました。

 

美しいボードだ。。。

CPUはまあまあ暖かくなります。消費電力は5V 0.15A = 0.75W でした。意外に低消費電力。モバイルバッテリーで十分動かせますね。

BASICを入れて、プログラム書いて遊びたい。本当は、このボードでCコンパイラが動くといいのですが、メモリが小さすぎて無理かな?やっぱり、同じボードで完結する環境が好きなので、インタープリターを入れていじくるのが良い。

… 勢いあまって、BASIC もEEPROMに書き込んで動かしてみた。

夜更かししてないで、はよ寝よ!

 

 

中学受験雑感

娘の中学受験が終わって2週間ほどが経ち、もう少しで中学の保護者ガイダンスです。試験が終わってから1週間ほどはちょっと親は抜け殻みたいになっていたんですが、ようやく少し戻ってきたという感じです。今日、塾の教材もかなりゴミに出して、少しすっきりとしました。

とにかく、塾に行ってかなりの時間受験勉強しているので、どこかに入学できないとつらいだろうなと思って、とにかく、併願をいろいろと組んだり必死でしたが、終わってしばらく経つと、そこまでする必要があったかな?という疑問も少し感じないわけではないですね。

中学受験に娘を放り込んだのは、半分は親のエゴだと思っています。我が子はどれくらい頑張って勉強に取り組めるかな?というような感じの。

私は、中学受験や、中高一貫を直接経験していませんので、娘を通じて、どんな世界か体験してみたかった、というのもちょっと(かなり?)あります。

私自身は、小学校の時にしばらく豊島区に暮らしていたことがあるのですが、その時同級生が四谷大塚に通っていたな、とか、そのあと神戸に引っ越したときに、同級のデキル女子が中学受験したらしく、担任の先生がその子のお母さんに「合格おめでとうございます」って言っているのを横目に「ん?何?」と思ったりとか、高校の時、東大模試を受けに神戸の駿台に行ったら、灘の子が大勢つるんで余裕の表情で楽しそうにしているのを見てコンプレックスを感じたりとか、中学受験・中高一貫の世界って、周辺から、遠巻きに眺めている、という感じでした。

大学に入った後、クラスには中高一貫生がたくさんいましたが、割合みんな器用にそつなくこなす人が多いな、という印象を持ちました。今思うと、中学受験の問題を短い時間の中で戦略をもって解く練習をしてきた人たちだから、公立の野武士とは違って当然という気がします。

大学生の時に中学受験生の家庭教師をしたことがあるのですが、その時、少し中学受験のこわさを感じる出来事もありました。その教え子は、麻布を目指していたんですが、合格できず、その報告をお母さんから電話で頂いたとき、「聖光は受かったんですが。。。」というなり、電話口で泣きだされたんです。私はおろおろしてしまって、結局それっきりになってしまったんですが、当時は「受かったところがあるんだから、いいじゃない」と思っていたんですが、今は、お母さんの気持ちがわかる気がします。(というか、中学受験生の家庭教師を、公立出身の人間がやるのは無理がありました。ごめんなさい。)

我が子が塾に行き、中学受験をし、中高一貫に入るということで、まあ、よかったな、と思うんですが、親の目から見ると、塾での2年間で、少し、教わりグセがついてやしないか?と心配するところも、少しあります。

中学受験の問題、確かに難しいとは思いますが、しょせん小学生の学習範囲です。1年も経てば、ちゃんと勉強に向き合う子たちだったら、みんな理解できる事柄を、あの短い試験時間内に、そつなく正解する力を訓練し、競っているだけだと思います。(だけ、は、ちょっと言い過ぎかな。)

(だから、親は、少し肩の力を抜いて、子どものチャレンジをサポートするのでちょうどいいと思います。あんまり、順位がどうだーとか、こだわってもしょうがない。とかは、終わった後だから言える話、ですが)

中学からは、勉強にせよ、何にせよ、もっと時間をかけて悩んで自主的に取り組んでほしいな、考え抜く、ということを一生懸命やって欲しいな、という風に私は今思っているところです。

 

コンピューティング今昔

娘とIchigoJam を組立て、BASIC事始めしてます。

IchigoJamは、画面はビデオ端子を使います。キーボードはUSB端子がついているのですが、これはPS/2キーボード対応しているUSBキーボードをつけるための端子のようで、愛用のthinkpad キーボードはつながりませんでしたので、amazonでこれを購入し、プログラムを楽しめるようになりました。最初は、こんな単純なのつまんない、って言うかななんて思っていましたが、結構楽しんでます。

単純にBEEPコマンドを打って音を出すだけでも、盛り上がっています。素直な娘だ。。。まあ、BEEPコマンドも、音程を変えられるような仕組みになっていて工夫されているとは思いますが。

娘と一緒にBASICで遊んでいると、例によって自分の昔を思い出しちゃいました。

私とパソコンとの最初の出会いは、友達のうちにあった、MZ2000
でした。今調べると、結構高い機械だな、友達のお父さんお金持ち!と思う。毎日のように友達の家にお邪魔して、プログラム打ち込んで遊んでました。カセットテープからシステムプログラムを読み込んで立ち上がるという、今思うとかなりチャレンジングな機構を採用していましたね。いろいろなシステムが走らせられるのはいいような、カセットなので、10分程度待たないと立ち上がらなかったような、そんな記憶が。

当時、秋葉原ではMSXが出始めたタイミングだったと思います。当時の私の愛読雑誌の初歩のラジオなどでも特集が組まれていましたが、MSXは画面がMZ2000と比べたら綺麗ではなかったので、あまり興味はありませんでしたね。

次に、触れ合ったパソコンは、JR200でした。これも自分のではなくて、友達の家で、やっぱりプログラム打ち込みとかして遊んでいたと思います。この友達はファミコンも持っていたのでゼビウスとかして毎日遊んでいました。

自分はと言えば、我が家は、父が(娘の祖父)めったに子どもにモノを買い与えない人だったので、パソコンはおねだりもしなかったと思いますが、買ってもらえませんでしたね(その反動が今に出ている気もします。。。)

ようやく中学2年の時にFM77AVを買ってもらったのが自分の最初のパソコンでした。やっぱり、BASICのプログラムを打ち込んだりして遊ぶのが多かったと思いますが、XANADU、とかゲームソフトも買ってもらって、いやほど遊んでいたと思います。当時は、パソコンもいろいろいじくる余地があったので、パソコンでゲームするのが多かったとは思うんですが、何割かは、当時ソフトバンクが出していた、Oh!FM という雑誌の記事を参考に、拡張メモリボードを作成したり、AD変換器をつけてデータをとったり、Cでプログラミング(DRACO Cというちょっと風変わりな処理系を使っていた)を始めたりと、今につながることを始めたのもちょうどこのころと思います。

(当時、ソフトバンクの出版者の孫正義、という名前を見て、変な名前、って思っていた。。。)

で、高校の時は、高2あたりから大学の受験を考え始めて、あまりパソコンで遊んだ記憶がありませんが、大学に入って、教養で、プログラムの時間がありましたが、学校で使っていたのが、FM16βだったと思います(と書いて調べてみたら、時期があいませんね。FM-Rだったかも。)学校に営業しまくりの富士通ですね。授業の時間、課題に飽きてPascal でワイアーライン3Dグラフィックスを書いて遊んだり、当時はまだWebのない時代でしたが、大阪大学に進んだ高校の同級生とtalk でキーボードチャットをしたりしていたような気がします。

そして、3年生で専門に上がって、出会ったのが、学科の計算機室にあったSunMicrosystems のSPARCstation2。共用の計算機室のSun3と比べたら圧倒的に速かった(今思うと、めちゃ遅いですが)。それに、SPARCstationのピザボックスのような形状がめっちゃカッコよかった!

当時、Webの始まりで、MOSAICで見られるホームページをつくったり、emacs, gccなどのgnuの環境をコンパイルして整備したり、朝から晩までかなり時間を無駄に浪費していました。おかげで単位が足りず卒業がやばかった。。。のも今ではいい思い出(?)です。学部3年生の時には、家ではEPSONのPC386Pっていう、遅めの98互換機(貧乏学生だったので)で、MSDOS上でLaTeXやグラフ描画ソフトのNgraphを使ってレポートを仕上げていましたが、やっぱり学科の計算機室に入り浸って、unix で遊んでいる方が多かったですね。

その後、修士時代にlinuxと出会い・・・と続いていきますが、今思うと、激動の時代だったなと思います。

娘はこれからどのような計算機との触れ合いをしていくのだろう?と楽しみです。私も、昔を振り返るのはこれくらいにして、もう少し最新のコンピューティングに触れ合うようにしよう、と思いました。

 

受験後・・・

2年ほど、ほとんど遊びにも行けず塾と家で勉強をしていた娘・・・

受験が終わって我が世の春を謳歌しております。

祖父・祖母に報告のため、関西の実家に1泊で帰省。

滑りまくり。

やや、遅れ気味な気がしますが。。

昼は、遊具公園へ行き、4歳ぐらいから11歳ぐらいの子たちと一緒に遊びまくりご満悦。受験勉強で体がちょっと鈍っている様子です(父も)。

夜は、カニを食べまくり、ご満悦。

行き帰りの新幹線の中では、好きな本を読みまくり。

父は、過干渉(?)で、入学後、数学に躓かないでほしいとの願いのもと、少し代数を勉強するようにテコ入れ、していますが、まあ、1日10分ぐらいです。

祖父は祖父で、空気を読まず、娘に今年の灘中の問題を解いてみろと差し出してました。娘、解けず・・・。「もう無理」とのことですが、受験時期でも無理、の間違いだと思います。日に日に毎日受験した日々が遠い日のことになりつつありますが、それでいいのだ。

今日は、親子で、IchigoJamのキットを組み立てをしつつ、正しいはんだ付けの仕方を娘に指導しました。本当は1年ほど前にしておきたかったが、受験があったので遅くなりました。賢い子の家庭なら受験勉強と並行してこういうのをやれたと思いますが、我が家はそこまでの余裕はありませんでした。

このキットは、Webに丁寧な作り方のドキュメントもあり、優れていると思います。電子工作・マイコン入門として、Arduino やラズパイも考えたが、やはりはんだ付けをする要素があった方が良いし、インタープリターでプログラミングは始めた方が良いと思うので、IchigoJamを2個買ってはんだ付けの教材兼プログラミングの教材にすることにした次第。娘の教育に飽きたら(or 娘が父の付き合いに飽きたら)、父の遊び道具として、mbed 入れて遊ぶ予定。

そんな感じで、毎日が楽しく過ぎていきます。受験終わってバンザイ!

中学受験 拾遺(3)

学習

学習に関しては、気持ちはともかく、実際には我が家は十分サポートできていなかったので、もう少し何とか出来たらよかったかも、と感じています。新5年生の時に入塾して、その夏ぐらいまではほとんど放置していましたが、5年の夏期講習時にこれではあまりよろしくないと思って、家庭で学習計画管理も少しするようにしました。このあたりのことは、中学受験についてこのブログで書き始めたときに書いた通りです。

日能研の公開模試偏差値は、5年の平均がだいたい55ぐらい。6年の平均がその+9程度でした。と考えると、よく6年の年間偏差値を「持ち偏差値」と言ったり、6年の模試の最高、最低の範囲で志望校をまとめましょうというアドバイスがありますが、我が家の受験結果から考えてもそれは妥当だと思います。

過去問について

我が家は、始めるのが遅くて、10月ぐらいに最初の過去問をやりましたが、ぼろくそで、第一志望校の過去問で受験者平均点を超える点が出始めたのが1月になってからでした。その後も、受験者平均を割る点しか取れない年も多く、最後まで不安でした。豊島は、1回の合格最低点は過去問で取れるようになっていましたが、2回、3回は、ぎりぎり合格程度だったので、1回の不合格を見たときには親としては、「ああ、残念だ。。。」と正直思いました。これらの学校の過去問は、最終的には10回分程度をやりました。

1月の淑徳与野、明の星、渋谷幕張については、それぞれ3回分程度をやって本番に臨みましたが、どの学校についても合格点には毎回達していました。特に、渋谷幕張は、R4偏差値からするとチャレンジなのですが、過去問からすると毎回余裕がありました。これは、社会理科の重みが他の学校と比べると重めで算数の弱い娘の弱点をカバーしてくれていたのかも、で、本番入試でもそれぞれ合格をもらえました。

併願校の組み立てについて

塾のアドバイス通り、娘の模試偏差値の範囲から受験校を選定しました。1月については、2月受験校が女子校が多いと考えられたので、女子校連戦ができる淑徳与野・明の星と、娘がなぜか受けたさそうにしていた渋幕を選択しました。2月校は、豊島はチャレンジなので、全落ちに備えて1日午後と2日午後に受験校を設定しましたが、体力・精神力的に、2月受験は非常に大変で、1日の午後受験はもっと楽に移動できるところを選んだ方が2日の受験に良かったのかもしれませんが、受験校は行ってみたい学校でないといけないので、現実には他の組み方は難しかったと思います。2日午後は出願はしていましたが、2日の豊島であまりに疲れた感じだったことと、1日のフェリスが合格していましたので、受験をあきらめました。

受験が終わって

子どもはさっさと、学校に戻っていきました。切り替えが早い!親は、なんだか急に終わっちゃった感じで、心にぽっかり穴が開いたままです。仕事もずいぶん休ませていただいて、滞っているのですが、仕事に気持ちがまだ戻ってきていません。明日から大丈夫かな。。。